スポーツの夏

 昔、「巨泉のクイズ・ダービー」という番組がありました。(ちなみに、私は今の彼「大橋巨泉」は嫌いなのです。単なる批評家に成り下がっている感じなので。)
 で、その中で、「世界大会(多分オリンピック)で、日本人選手を片っ端から打ち負かしている、とても強い外人選手がいる。それは誰だ?」といった内容の問題が出されました。(実際は、そのことをおばあさんが感心しているという問題だったと思います。)
 近頃の日本人選手は大分強くなったのかな。あまり、その外人選手には負けなくなりました。でも、今回のアテネ・オリンピックでもその外人選手に負けている人がいますので、侮れません。
 で、その外人選手の名前はというと、(もうわかったかなぁ。)「プレッシャー」さんです。というのがその問題の答えだったのです。つまりこの問題は、スポーツの国際大会などで、(今回はあまり言われませんが)「○○選手、プレッシャーに負けました!」というような報道が繰り返されているということを風刺した問題なのでした。
 この問題は、2つの理由で今でも覚えています。ひとつめは、妙におもしろかったということです。もうひとつは、その当時から今までずっと感じ続けている「疑問」です。
 それは、プレッシャーに負けて本来の力が発揮できないなんておかしいということです。「プレッシャー」=「負荷」と考えると分かると思うのです。
 例えば、電池の電圧を測るときに、何の負荷も与えずに両極にテスターをあてて測るのと、定格の負荷をつないでその間の電圧を測るのとでは、明らかに電圧が違います。だって、電池内部の抵抗がありますから。この場合は、もちろん、負荷をつないだときの電圧が本当のその電池が発揮できる電圧と言うことになります。エンジンの出力を計測する場合などでも同じです。つまり、マシンというのは、実際に使われる状況と同じか同等の状況で発揮できる能力が、そのマシンの能力ということになります。
 翻って、人間の心理状態でも同じではないでしょうか。つまり、自分がいつも通っている練習場でいつもの仲間やコーチに見守られて発揮される力というのは、「本当の」力ではないということです。未知の場所で、知らない人たちに(あるいは敵意を持って)見られながら、発揮できる力こそが、その人の本来の力なのでは。私は今でもそう思っています。
 クイズ・ダービーが放送されていたのは随分昔です。私が小学校の頃だったでしょうか。私はそのころから、未だずっとにその疑問を抱えています。つまり、「プレッシャーに負けた」のではなく、「それがその人の実力」ではないのか。だから、「プレッシャーに負ける」という表現は絶対におかしいと思っています。
 機械が、ある性能しか出せない場合、「負荷に負けました。」なんて言いませんものね。
 さて、私の夏期スクーリング、もうすぐ終わります。去年は、大学に入ったばかりで、よく分からないうちに夏期スクーリングの申込書が来て、すぐに申し込んで、訳の分からないまま出てきて、授業を受けていました。あのときは、ドキドキの毎日でした。随分長く感じました。でも、今年はあまり長く感じません。なんだか慣れてしまったような気がします。うーん、もっとドキドキしたい。(血圧が上がるなんて言わないでね。)