仰木彬氏が死去

イチロー、野茂育てた名将 仰木氏死去

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死去した仰木氏。2005年7月ユニホーム姿での笑顔で

 

 名将、死す。今シーズン、統合球団オリックス・バファローズの監督を務め、球団のシニア・アドバイザーに就任していた仰木彬(おおぎ・あきら)氏=元本紙評論家=が15日午後4時10分、福岡市内の病院で呼吸不全のため死去した。70歳だった。がんを克服し、球界史上最年長監督として復帰した仰木氏だが、勇退後再び体調が悪化。清原、中村紀らがオリックスのユニホームを着る日を待たずに野球一筋の生涯を閉じた。葬儀日程は未定だが、家族・親族の意向で密葬で執り行われる。

 野球を愛し、野球に生涯をささげた仰木氏が、ついに帰らぬ人となった。仰木氏は94年に肺がんの手術を受けていた。03年にがんが再発し、2度目の手術を受けたが、抗がん剤による治療が成功。04年12月の野球殿堂入りを祝うパーティーでは、イチロー、野茂、田口らに囲まれ、ゴルフコンペも楽しんでいた。

 西鉄での現役時代は中西、稲尾らとともに黄金時代を築いた。70年から近鉄で18年間コーチを務めた後、88年に監督に就任。前年最下位のチームを率いて西武とデッドヒートを演じ、10月19日のロッテ最終戦(川崎)で引き分け、優勝を逃した。その翌89年には129試合目で西武、オリックスを振り切り優勝。その年のドラフトでは8球団が競合した野茂を引き当てた。94年にオリックスの監督に就任すると、3年目の鈴木一朗を見いだし、登録名を「イチロー」に変更。プロ野球最多記録となる210安打を達成させた。阪神大震災が起きた95年から2年連続でリーグ制覇。96年には長嶋巨人を破り日本一に輝き、被災に沈む神戸市民を勇気づけた。

 04年に野球殿堂入り。今年05年には統合球団オリックス・バファローズから監督復帰を要請された。「これで野球に恩返しができるなら」と70歳の日本プロ野球史上最年長監督が誕生した。しかし、監督という激務の中で病魔は再び進行。最終戦となった9月28日の西武戦(インボイス西武)では、階段を上ることができないほど体が衰弱。29日に神戸市内で宮内義彦オーナーに辞任を申し入れた。「ユニホームを着続けることは体調的にもご迷惑をかける」と中村勝広監督にバトンを渡した。ユニホームを脱ぐと同時に、福岡市内の病院に極秘入院。それでも10月7日の中村監督の就任会見には病床から駆けつけた。帰国したイチロー、田口の見舞いを受け笑顔を見せた日もあった。

 「早く春になればいい。キャンプもまた行きたいしな」と語っていた仰木氏。だが「退任のときに選手にあいさつがちゃんとできなかったから」と出席を予定していた11月末の球団納会を急きょキャンセル。このころから容体が悪化したもようで、15日午後4時すぎ、長かった病気との闘いにピリオドが打たれた。西鉄時代の野武士のような雰囲気もありながら、それでいて采配は大胆。酒をこよなく愛し、妙齢の女性がいればはしゃぎもする、紳士のようで堅物でない人柄が魅力だった。イチロー、野茂、田口、長谷川ら多くの大リーガーを育てた名将の姿はもう見られない。

 ◆仰木 彬(おおぎ・あきら)1935年(昭10)4月29日、福岡県生まれ。54年に西鉄に入団し、67年の現役引退まで二塁手として活躍。88年から近鉄の指揮を執り、89年リーグV。94年に監督に就任したオリックスでもイチローを発掘するなど手腕を発揮し、95年リーグV、96年には日本一に輝く。04年に野球殿堂入り。05年には新生オリックスの初代監督に就任も、体調不良で同年に勇退。監督通算成績は1856試合で歴代12位の988勝、勝率は・548。

 ≪来年は弔いイヤーに≫仰木氏の死去を受けてオリックス・小泉球団社長と中村監督がスカイマーク内の球団事務所で16日午前1時すぎから緊急会見。小泉球団社長は「突然の訃報(ふほう)で何と言っていいか分からない。統合元年の難しい時期を指揮していただき感謝の気持ちでいっぱい。残念でならない」と声を詰まらせた。中村監督も「秋季キャンプ前日に監督としての心構えを話してくれた電話の声が忘れられない。来年は弔いイヤーにしたい」と無念の表情で話した。

(スポーツニッポン) – 12月16日6時3分更新

 大変残念なニュースです。「仰木マジック」と呼ばれた独創的な采配はもとより、気さくなキャラクターが大好きでした。実は、仰木彬氏は、私と高校が同じなのです。でも、それが理由で応援していたわけではないです。

 球界からまた個性的なキャラクターが消えていってしまうのが、とても残念ですね。

仰木彬氏が死去」への1件のフィードバック

  1. 仰木マジック

     阪神大震災が起きました1995年、「がんばろう・神戸」をスローガンに掲げて、プロ野球オリックスをリーグ優勝、翌年は日本一に導きました。この時、4番も固定せず100通りを越すオーダーを組むという、仰木マジックの頂点を極めた名将・仰木彬元監督が15日、70歳で逝きました。早すぎた死は惜しんで余りあります。
     震災当時、仰木オリックスの活躍は悲嘆に暮れる市民らに希望を与え続け、「やればで�…

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