オイコノミア「経済学は“自由”を目指す」(2018/2/28放送)

 久しぶりの投稿は、先日放送された「オイコノミア」のレビューです。オイコノミアは毎回視聴しています。経済学が大好きな私にとっては、内容は毎回大変興味深いものです。が、なかなか記事にする暇が無くて無沙汰をしています。

 今回はテーマが「自由」ということとゲストが「中村文則」さんだったことから、久しぶりに記事を書いています。

 「自由」というテーマは経済学とは少し離れている感があります。一般的に我々が考える自由の定義とは、経済学が基盤とする社会的な生活とは対をなすものです。それがどうして経済学と結びつくのか、そこは順を追って説明していこうと思います。

出演者

【出演】  又吉直樹 (ピース)
【ゲスト】 中村文則
【解説】  坂井豊貴 (慶應義塾大学教授)
【語り】  朴璐美

 そういえば、前回の「オイコノミアの記事」の時も解説は坂井豊貴教授でした。縁がありますね。

 中村文則さん、経済学に関する第一声が「株で儲けている人たちがやっている学問」と言っていました。なかなか鋭い切り口から入ってきますね。これは台本だったのでしょうか。


経済学と自由

 坂井教授はその中村文則さんの言葉から「経済学は自由な意思を尊重する学問」だとつないでいます。例えば「自由市場」、これは消費者が自由な意思でものを買ったりサービスを受けたりする事ができる、また生産者側も自由な意思でものやサービスを提供できる市場だということです。


自由の対義語

 番組では、街角のアンケートで「自由の対義語」とは何ですか?と尋ねていました。映像で流れた部分を拾ってみると「ハイパーストレスな状態」「会社」「不自由」「しばられている状態」「多忙」「囲い」「義務」「既定」「束縛」・・・

 又吉さんは例によって穿った言い方で「自由」の反対は「自由」と表現していました。自由にやってくださいと言われるのが一番困るという事でした。中村さんも同じように小説の一行目がいちばん自由だと言っていました。

 社会学において「自由」の対義語に関しては長い事議論されてきたそうです。その中でも「自由」の対義語は「服従」と言う事になるらしいです。これは自由とは「自分の意思で自分の行動を決める事」、「服従」とは「他人の意思で自分の行動を決める事」ということです。


自由の定義

 アルコール中毒の患者を例にとって、アルコール中毒の患者がお酒が飲みたいから酒屋でお酒を買う事は自由な選択であると言えるかという話がありました。これは、坂井教授によれば「自由ではない」と言う事になります。何故ならば「自由にとって大事な事はちゃんと考えて選べること」だからです。アルコール中毒の患者は自分の意思とは関係なく体がアルコールを求めてしまうからだということでした。人間は多かれ少なかれ欲求、情動というものに突き動かされて行動するものだろうとは思いますが、中毒のレベルになると自由意志よりも強い欲求により行動が制御されるということを言いたかったのでしょう。これはアルコールだけではなく、習慣性、依存性があるもの、たばこや麻薬なども当てはまるかも知れません。ギャンブルなんかも当てはまるのでしょうか?

 ということで、自由の定義とは本人が自由な意思で選べる事ということです。それであれば、自由の対義語が服従であるというのも納得できます。


決闘をする自由

 番組内で宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の決闘の小芝居がありました。多数決の回の時はミニドラマがありました。坂井教授の時はこういう小芝居があるのでしょうか?

 さて、坂井教授は「To be,or not to be, that is the question.」というハムレットの名文句を引き合いに出して「決闘をさせるべきか、止めるべきか、それが問題だ」と又吉さん、中村さんに問題を出します。又吉さんは決闘中止の札を上げました。中村さんは教団Xを書いているからネタで決闘させるの札を上げるかと思いましたが、又吉さんと同じ決闘中止の札を上げました(※教団Xでは、作中で教祖の目の前で信者を決闘させるというシーンがあります)。教団Xのネタに言及すれば面白かったのに・・・。

 驚くべき事ですが、19世紀までは多くの国で決闘することが禁止されていませんでした。日本でも1889年に決闘罪が成立するまでは禁止されていませんでした。


リバタリアニズムとパターナリズム

 ここに来てやっと経済学用語の登場です。

 まずは、リバタリアニズム(自由至上主義)です。これは個人が自由に判断し決定する事を尊重する考え方です。哲学者のJ.S.ミル(John Stuart Mill)の登場です。「愚行権」を認める考え方です。他者から見れば愚かな行いでも本人がやりたい事ならやってもよい、と言う考え方になります。

 もう一方はパターナリズム(温情主義)です。リバタリアニズムと反対で、本人の利益になるならば自由の制限を認めるという考え方です。番組では自動二輪車のヘルメット着用義務化を例に挙げていました。

 これはヘルメットをかぶらずに風を切って走る自由を政治が介入する事によって制限したものになります。

 同様に、自動車のシートベルトやチャイルドシートに関する義務もパターナリズムの一種ということになります。先ほど番組で紹介した決闘罪の成立もパターナリズムの台頭によって設けられた法律という事になります。

 もっとも、パターナリズムは本人の利益だけではなく社会全体の利益も考えられています。交通事故が多発すれば、労働人口の減少や社会の混乱等を引き起こしてしまうため、政治はそれを抑制する方向に舵を切るのは当然です。

 しかしながら、パターナリズムにより社会に規制が増えれば我々は息苦しさを感じてしまうのもまた正直なところです。自由な選択権を与えながら意図する選択をさせるような方策が必要となります。


ナッジ(Nudge)

 人は何事にも自由でありたい、自由に選択をしたいと思う中で、本人や社会にとってより望ましい選択をする事も求められます。この二つの考え方をうまく融合させたものが「リバタリアン・パターナリズム」です。そして、リバタリアン・パターナリズムの手法の一つがナッジ(nudge)ということになります。

 ナッジとは「肘でそっとつつく」と言う意味です。経済学では「選択権は本人に与えながらもそれとなく誘導する」手法の事を指します。又吉さんが言った、

  • トイレの男性用小便器に貼ってある的のシール
  • 居酒屋のトイレに貼ってある「いつもきれいに使っていただきありがとうございます」というメッセージ
  • はナッジの例です。が、又吉さん、トイレのネタばかりですね。

     坂井教授が紹介したのは米国テキサス州におけるゴミのポイ捨てを抑制させるスローガン「Don’t mess with texas.」番組では「テキサスを汚すんじゃねえ!」と訳していました。このスローガンは、テキサス州で看板などに掲げられていました。

     1986年にテレビCMなどのキャンペーンも展開し、ポイ捨てが30%も減少したとあります。道路に捨てられるゴミは6年間で60%も減ったという事です。

     で、こういう研究でノーベル経済学賞を受賞したのが前回も紹介した「リチャード・セイラー」です。


    アイデンティティ・マーケティングによる誘導

     次に紹介されたのが「パタゴニア」と言うブランド(番組内ではあるブランドとされていました)の広告戦略です。2011年に実際に出された広告は次のようなものです。

     タイトルが「Don’t buy this jacket.」(このジャケットを買うな)というものです。何の意味があるのか分からないと思いますが、この広告によって売上が30%も伸びたという事です。その種明かしは、広告の細かい説明文書にあるのですが、解像度が悪くて読めないので抜粋して紹介すると

  • どんな製品でもその製造には地球の貴重な資源を使っている事
  • だからよく考えて購買してほしい事
  • 当社は環境負荷低減にも取り組んでいる事
  • が書いてあります。この広告は「このジャケットを買うな」という挑戦的なコピーで人の目を引きつけ、説明文を読ませる事でパタゴニアという企業の環境姿勢を理解させるという手法をとりました。結果として、環境意識の高い人がパタゴニアの製品を買ったと言う事です。
    消費者もパタゴニアの商品を購入する事が「環境に配慮している自分」というイメージを手に入れる事が出来ます。これがアイデンティティ・マーケティングというものです。

     着るもの、身につけるものは自分がどう見られたいか、どういう印象を持たれたいかという基準のもと選択をしています。これは一見自由な選択のように思えて実は知らず知らず誘導されているに他なりません。

     中村文則さん、普段「暗い」と思われているのでそういう服を買わなきゃいけないのかな?というコメントは秀逸でした。


    まとめ、貧困と自由

     坂井教授が言った「自由のサイズは所得で決まる」とは、資本主義経済を代表する言葉です。共産主義が事実上崩壊して世は資本主義が謳歌しています。その中で紹介されたのが、ノーベル経済学賞をアジアで初めて受賞した「アマルティア・セン」の考え方です。彼は貧困を、自由を奪う事から問題視しています。

     又吉さんは貧困をバネにして成功した人の話を例に挙げて「貧困を言い訳にしてはいけない」という言い方は好きではないと言っています。

     番組の論調としてはやはり貧困による自由の制限というのは存在しているというこです。

     さらに、坂井教授はジャン・ジャック・ルソーの「奴隷の幸福」を挙げていました。奴隷の幸福とは「奴隷は鎖の中で全てを失ってしまう、そこから逃れたいという欲望までも」と言う言葉に代表される考え方です。奴隷以外の生き方を知らなければそこから逃れたいという欲望も湧かないと言う意味で、選択肢が与えられなければ本当の自由を得られないという事です。

     ということでまとめると、日本を初め欧米などでは比較的自由に様々な情報が入手できます。情報が入手できる事は、多くの選択肢がある事を知る事になります。また公序良俗に触れない限り、あるいは他人に迷惑をかけない限りは自由に行動を選択できるという権利があります。もちろん格差社会が叫ばれている中、限られた選択肢しか選択できない人がいる事も理解していますが、多くの人は自由であると言えます。


    後記

     ただし、多くの国で自由は市民革命などによって自ら勝ち取ったものですが、日本は与えられた自由であるということです。だから、自由である事のありがたみが少ないし、自由に関する教育も少ないと思っています。与えられた自由であるならばそれを取り上げられる事もあるという事です。せっかく手にした自由を奪われないようにしたいと思っています。