はねられた!!

 昨日帰りがけ、近くのホカ弁屋を出てきた軽自動車の後を横切ろうとしたら、それが急にバックしてきて。

 見事に自転車ごとはねられてしまいました。

 右足親指の爪が剥がれかかったほか、少し出血、内出血。

 右手の平と左肩甲骨、それに腰を打撲。

 自転車は中破で走行不可能。

 いやぁ、びっくりしました。でも、吹っ飛ばされながらも「今日のブログのネタは決まった!!」と思ってしまった私って・・・。(^_^;)

 でも、実際は熱が出たのでかけなかったのですね。今日書いています。

同期で忘年会

 平成15年度の実務補習を一緒に受けたメンバーと忘年会をしました。前半の指導をしてくれた診断士の先生にも参加していただきました。

 場所は天神の飲み屋さんです。私は途中大渋滞に巻き込まれてバスが遅れてしまったので時間より少し遅れていったのですが、なかなか盛り上がりました。

 先生は、企業の再生支援が専門かと思っていたのですが、それ以外にもベンチャーの支援なども行っておられるということを初めて聞きました。

 実は、先生とはあまり飲む機会がなかったのです。先生は体調からお酒をお飲みにならないし、だから酒席にもあまり参加されません。なかなか個性的な方なので、本部と馬が合わないこともあるのでしょうね。だから、初めていろいろとお話を伺うことができてとてもおもしろかったです。やはり、経験に裏打ちされたお話というのはおもしろいです。

 私もまだまだ経験不足ですが、参考にさせていただきたいと思います。

仰木彬氏が死去

イチロー、野茂育てた名将 仰木氏死去

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死去した仰木氏。2005年7月ユニホーム姿での笑顔で

 

 名将、死す。今シーズン、統合球団オリックス・バファローズの監督を務め、球団のシニア・アドバイザーに就任していた仰木彬(おおぎ・あきら)氏=元本紙評論家=が15日午後4時10分、福岡市内の病院で呼吸不全のため死去した。70歳だった。がんを克服し、球界史上最年長監督として復帰した仰木氏だが、勇退後再び体調が悪化。清原、中村紀らがオリックスのユニホームを着る日を待たずに野球一筋の生涯を閉じた。葬儀日程は未定だが、家族・親族の意向で密葬で執り行われる。

 野球を愛し、野球に生涯をささげた仰木氏が、ついに帰らぬ人となった。仰木氏は94年に肺がんの手術を受けていた。03年にがんが再発し、2度目の手術を受けたが、抗がん剤による治療が成功。04年12月の野球殿堂入りを祝うパーティーでは、イチロー、野茂、田口らに囲まれ、ゴルフコンペも楽しんでいた。

 西鉄での現役時代は中西、稲尾らとともに黄金時代を築いた。70年から近鉄で18年間コーチを務めた後、88年に監督に就任。前年最下位のチームを率いて西武とデッドヒートを演じ、10月19日のロッテ最終戦(川崎)で引き分け、優勝を逃した。その翌89年には129試合目で西武、オリックスを振り切り優勝。その年のドラフトでは8球団が競合した野茂を引き当てた。94年にオリックスの監督に就任すると、3年目の鈴木一朗を見いだし、登録名を「イチロー」に変更。プロ野球最多記録となる210安打を達成させた。阪神大震災が起きた95年から2年連続でリーグ制覇。96年には長嶋巨人を破り日本一に輝き、被災に沈む神戸市民を勇気づけた。

 04年に野球殿堂入り。今年05年には統合球団オリックス・バファローズから監督復帰を要請された。「これで野球に恩返しができるなら」と70歳の日本プロ野球史上最年長監督が誕生した。しかし、監督という激務の中で病魔は再び進行。最終戦となった9月28日の西武戦(インボイス西武)では、階段を上ることができないほど体が衰弱。29日に神戸市内で宮内義彦オーナーに辞任を申し入れた。「ユニホームを着続けることは体調的にもご迷惑をかける」と中村勝広監督にバトンを渡した。ユニホームを脱ぐと同時に、福岡市内の病院に極秘入院。それでも10月7日の中村監督の就任会見には病床から駆けつけた。帰国したイチロー、田口の見舞いを受け笑顔を見せた日もあった。

 「早く春になればいい。キャンプもまた行きたいしな」と語っていた仰木氏。だが「退任のときに選手にあいさつがちゃんとできなかったから」と出席を予定していた11月末の球団納会を急きょキャンセル。このころから容体が悪化したもようで、15日午後4時すぎ、長かった病気との闘いにピリオドが打たれた。西鉄時代の野武士のような雰囲気もありながら、それでいて采配は大胆。酒をこよなく愛し、妙齢の女性がいればはしゃぎもする、紳士のようで堅物でない人柄が魅力だった。イチロー、野茂、田口、長谷川ら多くの大リーガーを育てた名将の姿はもう見られない。

 ◆仰木 彬(おおぎ・あきら)1935年(昭10)4月29日、福岡県生まれ。54年に西鉄に入団し、67年の現役引退まで二塁手として活躍。88年から近鉄の指揮を執り、89年リーグV。94年に監督に就任したオリックスでもイチローを発掘するなど手腕を発揮し、95年リーグV、96年には日本一に輝く。04年に野球殿堂入り。05年には新生オリックスの初代監督に就任も、体調不良で同年に勇退。監督通算成績は1856試合で歴代12位の988勝、勝率は・548。

 ≪来年は弔いイヤーに≫仰木氏の死去を受けてオリックス・小泉球団社長と中村監督がスカイマーク内の球団事務所で16日午前1時すぎから緊急会見。小泉球団社長は「突然の訃報(ふほう)で何と言っていいか分からない。統合元年の難しい時期を指揮していただき感謝の気持ちでいっぱい。残念でならない」と声を詰まらせた。中村監督も「秋季キャンプ前日に監督としての心構えを話してくれた電話の声が忘れられない。来年は弔いイヤーにしたい」と無念の表情で話した。

(スポーツニッポン) – 12月16日6時3分更新

 大変残念なニュースです。「仰木マジック」と呼ばれた独創的な采配はもとより、気さくなキャラクターが大好きでした。実は、仰木彬氏は、私と高校が同じなのです。でも、それが理由で応援していたわけではないです。

 球界からまた個性的なキャラクターが消えていってしまうのが、とても残念ですね。

東京は暖かった

 一日で東京に行って帰ってきました。

 東京はぽかぽか暖かったですね。風がなくて、日が差して、いい天気でした。福岡に戻ると寒い寒い。それに雨も降っていたし。

 デモをするために、パソコンとプロジェクターとスクリーンを持って歩くと汗が出てきました。わざわざ福岡から持って行ったのです。空港で荷物を預けるときに、「なんですかこれは?」と聞かれました。それも、行きも帰りも。

 東京支社にもプロジェクターを置いていてほしいな。

御岳神社

 東京に行ってきました。東京にある中堅製造業に生産管理システムのデモンストレーションをするためです。

 今日訪問する会社の近くにある御岳神社にお参りしてきました。

 この神社の名前が、駅の名前になったのかな?

 それはともかく、¥100も賽銭入れたよ。

 おかげで、デモはうまくいったのかな?

 でも、競合が他2社あって、それを勝ち抜かなければなりません。

 御利益がありますように。

寒波~~

鉄骨の足場 強風で倒壊 福岡空港近くの県道

 十三日午前七時四十分ごろ、福岡市博多区空港前一丁目の県道(通称・空港通り)で、鉄骨の足場(高さ三十メートル、幅二十メートル)が倒れ、下りの片側三車線分をふさいだ。けが人はなかった。

 博多署の調べでは、足場は広告塔の支柱を塗り替える作業のため設置されており、高さ十メートルのところから折れ曲がっていた。当時作業員はおらず、車も通っていなかった。福岡管区気象台によると、空港近くでは午前八時ごろ、平均十メートルのやや強い風が吹いており、博多署は強風にあおられて足場が倒れたとみている。県道下りは通行止めとなり、足場の撤去作業が行われた。

(西日本新聞) – 12月13日14時56分更新

 いやぁ、とても寒いですねぇ。夕べはそれにすごい風。鉄筋コンクリート製のマンションなのですが、ゴーゴーと音を立てていました。通勤途中に空港近くの交差点にパトカーが止まっていたので、何があったのかと思っていたら、足場が倒壊して道をふさいでいるので大型車に迂回するように促しているところでした。

 あまりの寒さに顔面が硬直してしまいました。

 今週末の東京行き、うーん心配だ。

航空機は繁忙期に・・・

 今週金曜日に東京に出張に行くことになったのですが、JALのサイトを見ても、ANAのサイトを見ても、特割設定はなし・・・。

 年末なのですねぇ。

 スカイマークは特割設定があったのでそいつで行こうと考えています。でも、あまり空きがなくなりかけています。

 うーん、こうなったら新幹線で行こうかな。でも、大変なことになりそうです。

 あぁ、大変だな。

新田原航空祭のプログラム

大空舞台に妙技披露 新田原基地で航空祭
 新富町の航空自衛隊新田原基地(溝口博伸司令)で十日、航空祭があった。県内外の航空ファン約五万八千人(基地発表)が訪れ、航空機の機動飛行や曲技飛行など大空の祭典を満喫した。

 同基地所属の三〇一飛行隊、飛行教導隊、飛行教育航空隊のF4、F15戦闘機の編隊飛行で幕開け。機動飛行では、二機種の性能を最大限に発揮して垂直上昇や急旋回を次々に繰り広げた。

 最も盛り上がったのは空自松島基地所属ブルー・インパルスによる曲技飛行。六機編成のT4が一糸乱れぬ体勢で背面飛行や宙返りなど華麗な技を次々に披露し、スモークで青空に花や星形を描くと、観客からは大きな拍手と歓声がわき起こっていた。

 駐機場では戦闘機コックピット見学や、飛行服を着て記念撮影するコーナー、装備品の展示などが人気を集めていた。

宮崎日日新聞より

 というわけで、新田原航空祭のプログラムです。

  1. オープニングフライト:F4、F15*2
  2. 編隊飛行:UH60J、U125、T4、F4、F15
  3. 機動飛行、飛行教導隊:F15
  4. 対地攻撃:F1、F4
  5. 救難展示:U125、UH60
  6. 機動飛行:F4
  7. 機動飛行:F15
  8. 空挺降下:C1
  9. ブルー・インパルス

 でも、それぞれの演技時間は短め。あまり気合いが入っていないような感じでしたね。F4だけは、低かったね。

2005年12月11日 | カテゴリー : 飛行機 | 投稿者 : assak

どうなる!来年の新田原

 新田原基地航空祭、途中雲がかかったもののおおむね好天に恵まれ、全ての展示飛行が無事に行われました。

 で、来年の新田原基地では、基地南側に駐車場が使用できなくなる予定だそうです。そして、基地周辺に駐車場を設けて、そこからのシャトルバスを運行するとのこと。

 これは困ったぞ!新田原は何と言っても基地南側からの撮影ロケーションが最高の基地なのに。それがなくなると言うことは、新田原のメリットが全くなくなってしまうと言うことになります。

 航空祭終了後の基地周辺の大渋滞を見れば、車での入場を抑制、分散させるというのは有効な手なのかも知れません。でも、困ったものです。

 シャトルバスなどが要領よく運行してもらえればいいのですけどね。(先週の浜松基地航空祭みたいに)